アヴァロン後日談


アヴァロン史上、初めて人と人との大規模な衝突が起きた。
魔王戦争の後、エイダスを併合、さらにアヴァロンの覇権を目指すエルン王国と、
それをさせまじとしたヴォルドロス共和国とクロン首長国による対立が起きたので
ある。
さらにはペルトカ王国とダレイン王国の同盟や、プレスピアの独立を目指す勢力な
どが両勢力の衝突に乗じた。
あわやアヴァロン全土を巻き込む大戦争に発展するかと思われたが、最後の最後
になりエルン国王レスタークW世が戦争回避のために動き、己の退位と内務大臣
オルロンド伯の罷免を条件に他国と交渉し、世界に平和を取り戻した。
新たなエルン国王には、エルン王家の血を引くペルトカのイレーヌ王女が即位。
エルン、ヴォルドロス、クロンにより占領されていたプレスピア神殿は、クリスティー
ナ大神官が帰還し、独立を取り戻した。



レスターク王退位直前
イレーヌ女王即位直後
赤色・・・エルン王国
黄色・・・アヴァロン連合(ヴォルドロス、クロン)
緑色・・・中立同盟(ペルトカ、ダレイン)
青色・・・プレスピア神殿



次の話は、アヴァロンのその後の話である。

第1章 「それぞれの、終幕」   語り部:青木のだんな



『現在、プレスピアで行動している全てのエルン王国軍を、撤収する・・・』
 戦場に届けられたレスタークW世の書簡は、即時退却を命じていた。
 同時に、この書簡は各国の幕屋にも届けられた。これは、彼が為し得る最大 の、和平
への譲歩でもあった。誰もが皆、大戦の静かな終末を実感した、最初の出来事であっ
た。
 「・・・以後、エルン軍の、国外での戦闘行動及び駐留は一切行わないことを誓約する。
これは一時的なものでなく、永続的かつ恒久的なものとする。エルン王国国王レスターク
W世」
 宣誓文を読み上げたレスタークW世は、居並ぶ臣下に目を移した。彼の予想通り、誰
よりも早くこの宣言の内容を理解し、反応したのは内務大臣オルロンド伯爵であった。
 「ばかな!」
 すぐさま答えたオルロンドのその一言は、平時であれば不敬罪に問われるものであっ
たが、レスタークW世はあえて聞き流していた。
 「陛下、お考え直しください。状況は、決定的と言わずとも、いまだに我が軍に有利で
す。この段階で撤兵すれば、以後の情勢は我が国に不利にしか働きません。おそらく各
国協調で不利な条約を押し付けることは明白です。重大な過ちを犯すことになります
ぞ。」
 「・・・俺の一番の過ちはな、」
 レスタークは静かに、まるで旧来の友人に話しかけるように答えた。
 「伯爵、君を内務大臣に任命したことだ。自ら国務に精勤せず、他人任せにすること
は、統治者として恥ずべき行いであった。・・・もはや手遅れかも知れぬが、少しでも訂正
しておくことにしようか。オルロンド伯を内務大臣の任より解く。別命あるまで職務は宰相
グスタフが兼ねるものとする。」
 呆然と立ち尽くし、急速に温度を失いつつあるオルロンドの表情をみて、レスタークは
少し疲れたような、しかし優しげな笑みを浮かべた。
 「・・・伯を拘禁せよ。これからのことを考える前に俺は少し休む」
 エルンの宰相グスタフは後に、これが国王陛下が自ら御裁可なされた最初の決断だっ
たと、語っている。英断だった、とも・・・。





完全武装の我が軍数百人に囲まれて、しかし臆することなく毅然としていた神官エステ
ル殿は、まさしく神の使者に見えた、と、クロンのある兵士は語っている。
 「・・・エルンの侵攻を断念せしめ、またプレスピアの独立と復興のために本日までご尽
力頂いたこと、多大なる感謝の言葉と永遠の友愛をもって応えたい。連合軍諸卿に於か
れては、何の後憂もなく、つつがなくご帰国いただきまして、悠涼なる日々をお過ごしい
ただきますよう、大神官はじめプレスピアの神官一同、祈念いたすところであります。」
 ・・・要するに、とっとと帰れと言う事か。二十歳そこらの女神官に、一部のすきも無く告
げられた連合軍司令官ヴェルガモンは、ただ苦笑するばかりであった。
 エルン軍撤退から1ヶ月。プレスピア内でのクロン兵の処遇にも悩み始めていた時期で
はあった。このまま駐留を続け、何かの口実を契機にプレスピアを制圧するだけの兵力
が、彼の指揮下に無いという訳ではない。エルンが目指した野望を我々が抱いたとし
て、誰が非難できようか。
 だが、同時にヴェルガモンの脳裏に浮かんだのは、前日に届いたばかりの、自らの主
君、大族長シェーラの書簡だった。
 『拝啓、指令官殿。そっちはどお?クロンは相変わらず、右を見ても左を見ても砂ばっ
かりよ。まあ、あたしは気に入ってるんだけどね。最近はレイナードのやつが、戦争も無
かったんだし早く闘技場再開をって煩いんだけど、まあ、君たち兵士が戻ってくるまでは
無理ね。出場者が足りないもの。君は相変わらず?砂漠を長いこと離れて、すっかりふ
やけたんじゃないでしょうね。まあ、心配はしてないけど。じゃあ、また』
 殆ど殴り書き同然の書簡から受けた衝撃は、しかし彼女を主君と仰いだことを決して
後悔させるものではなかったのだ。
 「・・・ふやけた、か」
 ヴェルガモンは誰にも聞こえない小さな声で呟いた。そうだ、我々は砂漠に生きる民な
のだ。たとえ貧しくとも、失ってはならないものが、ある。
 「任務ご苦労。貴国に対するわが軍の使命はすでに完了したと、小生も判断していたと
ころだ。連合軍は明日より順次帰還作業に入る。大神官クリスティーナ様ならびに神聖
騎士団長テスタロット殿にも宜しくお伝えいただきたい。」
 彼の返答に、やはり一分の間違いも無い敬礼を返すと、エステルは左右に居並ぶ兵
士たちを、まるで林木のように一顧だにせず、颯爽と立ち去っていった。  ヴェルガモン
は二人の、同世代だがまったく違う性格の女達に、しかし同じ強さを感じていた。





「ねえ師匠・・・」
 ダレインの武具工房には、当世一の職人カリオンと、唯一の弟子、というより見習の少
年、シグルドの姿があった。
 「この前出荷した武器なんだけどさあ、あれってオイラが練習で打ったやつでしょう。あ
んなのいざって時には使い物にならないよ。どうするのさ」
 カリオンは研ぎ終えたばかりの剣の出来に静かに目を細めると、納得したかのように
静かに息を吐いた。
 「いいんだ。俺の打つ武器は使い手を選ぶ。雑兵ごときが手にするべき物じゃあな
い。」
 当惑するシグルドに向き直ると、カリオンは少年の瞳を真正面から見据えた。
 「それに、戦争なんかには、使い物にならない武器のほうが使い物になる武器より、は
るかに使い物になるもんだ。」
 「・・・全然わかんないや」
 シグルドの当惑した様をみて、カリオンは豪快に笑った。
 「それでいいさ、いつか判るときがくればな。それよりこの剣を見てみろ。わしの作品の
中でも随一の逸品だ。これで、あいつに会いにいける。」
 シグルドは、師匠が誰かの為に、たった一本の剣を鍛え続けていることは知っていた。
それが誰なのかは、今日まで一度も教えてもらっていないのだが・・・。
 「ねえ師匠、その剣はいったい・・・」
 言いかけたとき、不意に工房に来客があった。
 「失礼するぞ」
 入口に立っていたのは、前の闘技場審判長ウェスカーズだった。
 「なんだ、お前にはもう、一本極上のをくれてやったろうが。それとも錆でも浮かせた
か。」
 憎まれ口を言っていたが、カリオンがこの剣士を敬愛していることはシグルドにもすぐ
に判った。
 「いや、そっちは非常に良好だ。なんせ戦争が無いもんだから抜くきっかけも無いくらい
でね。今日お邪魔したのは別の、そう、まったく別の用件で彼に用があって。」
 そういうとウェスカーズはシグルドに視線を移した。
 「オイラに?」
 怪訝な顔をするシグルドに、ウェスカーズは懐から一冊の本を取り出した。
 「面白いものを見つけてね。『交換日記 シグルド&サラ』」
 カリオンは、自分の弟子の表情が急激に真っ青になっていくのを見た。無理も無い。ウ
ェスカーズの妹サラに対する愛情はアヴァロンでは有名だ。やや常軌を逸していることも
含めて・・・。
 「・・・なか、読んだの?」
 震える声で尋ねるシグルドに、ウェスカーズは鉄で作った仮面のように固まった表情の
まま応えた。
 「なかなか、興味深い内容だったよ。」
 シグルドは自分が危険な猛獣の前に立っているような錯覚に陥っていた。そしてそれ
は、客観的に見てもほぼ正確な洞察だった。
 ひどくゆっくりと振り返って、すがるように自分を見つめる弟子に、カリオンは冷たく告
げた。
 「走れ。お前が前審判長殿に勝てそうなのは、逃げ足くらいだ。」
 彼が言い終える前に、シグルドは窓から飛び出していた。ウェスカーズもまた、解き放
たれた猛禽のように一直線で少年を追いかけていった。
 なるほど、アヴァロンは平和だな。カリオンは小さなため息をついた。そして急に寂寥
の眼差しになると、弟子の鍛えた小剣を手に取った。
 短期間で数百本の剣を打たせた結果、シグルドの腕前は急激に上達している。すでに
十本に一本は、これと思わせるものを打てるようになっていた。
 馬鹿げた戦争騒ぎだったが、一つだけマシなこともあったな、とカリオンは思う。これで
心置きなく引退できるってもんだ。なんだか急に大声が出したくなって、二人が飛び出し
て行った窓から身を乗り出した。
 「ウェスカーズ!どうでもいいが、俺の弟子、殺さねえ程度にな!」





エルンの撤兵開始よりすでに2ヶ月が経過していた。
先の魔王戦争の影響はいまだに根強く、プレスピア郊外の山林地帯には、多くの兵士た
ちの遺体が放置されたままになっていた。かつて魔将と畏怖されたグリムワルドは、哀
れな骸たちを遠望しつつ、一人で杯を傾けてその日を過ごしていた。
 「・・・珍しいな、余に来客か。」
 視線の先に一人の男を捕らえ、『現存するアヴァロン最強の魔族』と畏怖されたグリム
ワルドは、杯を静かにテーブルに置いた。彼が愛用する杯を手放すのは、よほどの相手
と対峙したことを意味していた。
 よほどの相手・・・"勇者"クアーズは黙ったままグリムワルドの眼前まで歩いてきた。す
でに50歳を過ぎた年齢をその姿からは感じさせない頑強な戦士は、この2年のうちに1
0を越える魔族を討ち、『魔族狩りギルド』の長として、その5倍以上の魔族を殲滅する戦
いの指揮を取ってきた。アヴァロンでもっとも魔族に忌避され、また恐れられる存在であ
る。
 「・・・魔王戦争の時以来だな。旧交を温めに参った、というわけでは無い様だな。」
 グリムワルドの口調にはいまだ余裕が感じ取れたが、しかしその視線には鋭刃の冷た
さがある。
 「ちょっと"魔将閣下"にヤボ用があってね・・・」
 クアーズの声もまた、落ち着き払っていた。表面的な会話はまるで旧来の友人が再会
したかのようであったが、二人の間、わずか3歩ほどの距離をしめる空気が急速に危険
な粒子を満たしていくのがわかった。
 「"勇者"と呼ばれる貴様にわざわざ足を運ばせる用件だ。よほどのことなのだろう。さ
しずめ余の命でも奪いに来たか。」
 いきなり核心をついたグリムワルドの言葉に、しかしクアーズは静かに首を振った。
 「その逆だ。君に殺されに来た。」
 グリムワルドの眉がわずかに当惑の色を見せた。
 「余に・・・殺されに?」
 「ああそうだ。」
 クアーズの応えはグリムワルドの思考の範疇を超えていた。
 「最近の若い連中は優秀でね。君ら魔族の残党も、もはや脅威とはいえない数まで減
ってきた。このまましばらくは人間社会の安全を維持することは容易いだろうさ。だが、
君らの存在が無害なものになってもらっては困るのだ。・・・2年前の戦いで魔王を倒し、
それゆえにアヴァロンの人間たちは思い上がって自ら戦争を始めようとした。今回は何
とか回避できもしたが、また平和が続けばいつまた間違いを犯すやもしれん。だが、人
間が手を携えねばならぬ脅威が身近にあれば、お互い争う暇など無かろう。"勇者"すら
打ち破る脅威ならば、なおさらだ。『魔族狩りギルドの長』としての最後の仕事は、未だ魔
族の脅威消えず、と警鐘を鳴らすことなのだ、この命を捨てることでね。」
 長い独白を終えると、さあ、と促すようにクアーズは自らの剣を抜いた。グリムワルドは
半ばあきれたように応えた。
 「・・・まったく人間の考えることは狂気じみてるな。余はそんな身勝手な理由のために
貴様を手に掛けねばならんのか。」
 「そう、嘆くことも無かろう。君の主君と、あまたの部下の敵が眼前にいるのだ、躊躇う
事はないだろうよ。わしも若い後継者がいるので、ここで死ぬことに何の不満もない。」
 クアーズはそういってまるで御前試合に挑む騎士のごとく剣を儀礼的に構えた。
 グリムワルドはゆっくりと立ち上がり、静かに対峙する。なるほど、人間の考えることは
理解できぬ。自ら犠牲になりにきた、というこの男の言葉に偽りはなかろう。自己犠牲は
魔族の理解できぬ人間の行動の最たるものだった。
 しかし、それならば何故、この男からは久しく経験したことのないほどの殺意を感じ
る?静かに構えられた剣が、余の本能的な部分に危険を伝えているのは?そして何よ
りも、この男に会った瞬間から感じる戦いの予感に、全身が震えるような歓喜に包まれ
ているのは?
 「・・・度し難いものだな。人間も、魔族も。」
 二人の殺意が交錯し、武器のぶつかり合う音が静寂を打ち破る。
 これ以後、魔将グリムワルドと勇者クアーズがアヴァロンの表舞台で目撃されることは
無かった。二人の戦いの結果は、誰も知らない。未だに続いている、という噂がプレスピ
アの港町でまことしやかに流れた。





エルンの内務大臣オルロンド伯爵がその職を解かれてから、半年が過ぎ去った。
 彼の実行したプレスピア派兵に始まる一連の混乱はすでに収束に向かい、国内では
宰相グスタフが、そして諸国の問題はペルトカのローガン王主導のもとで処理されてい
た。
 そんな中、オルロンドは数名の護衛とともにエルンの港を出港する船に乗り込んでい
た。混乱の首謀者たる彼をエルン国内にとどめ置くことに諸外国の反発があり、その身
柄はペルトカのローガン王が預かる、という通達にレスタークW世が従ったのだった。
 出港前の船の甲板で、オルロンドは一人、祖国の町を眺めていた。更迭されて以来、
彼の顔色は極端に悪くなり、目はくぼんで半病人のような様相だった。だが彼と至近で
会話するものは、異様なほど強く光る彼の瞳に小さく身震いするのだった。
 「伯爵閣下」
 不意に声をかけられ、驚いてオルロンドは振り返る。
 「ルコール将軍、このようなところまでお越しいただくとは!」
 義理堅い旧臣の姿にオルロンドは素直に喜んだ。落ち目の彼を見送るものなど誰一
人としていないと思っていたからだ。
 「閣下をお送りするのは私の責務です。私のような人間に、過分の地位と名誉を持って
お迎えいただいたことは、生涯忘れられるものではありません。私の力が及ばぬばかり
に、閣下には悔恨の日々をお過ごしのこと、恥じ入るばかりです。」
 無表情なルコールは、そういって敬礼した。実際、在野の彼を現在の地位でエルンに
招待したのはオルロンドであり、無双の将軍なしではオルロンドの計画もまた実現性す
らなかった。
 二人は両手を広げると、親愛の抱擁を交わした。オルロンドは、貴公が気に病むこと
は無い、と告げると、ルコールの耳元で静かにささやいた。
 「将軍、私はね。まだ全てをあきらめた訳ではないのだよ。レスタークW世陛下にはご
理解いただけなかったようだが、何も彼が世界唯一の国王ではなかろう。ローガン王は
実力と人望を兼ね備えたお方だし、その後継者は政治に興味を持たぬ少女だ。少し回
り道になったが、なあに、エルンであろうがペルトカであろうが、やることは同じだ。時間
はかかるだろうが、必ずアヴァロンを統一の国家にしてみせる。将軍、そのときは貴公
の力を再び私に貸してはくれぬだろうか。」
 オルロンドは初めて次の野望を打ち明けた。虜囚としていった先でも、自分の才覚が
あれば現在の地位まで上り詰めることが可能だと、若き伯爵は一片も疑っていなかった
 「・・・閣下」
 ルコールはオルロンドを強く抱きしめた。そのときまで自分の倍ほども年齢を重ねた将
軍のほほにある熱い滴に、オルロンドは気づいていなかった。
 「伯爵閣下、もう終わりなのです。私は貴方に、ただ静かな余生を過ごしていただきた
かった。ですが、貴方がそれを望まれないのならば、いいでしょう、この私が最後までお
供いたします。どうぞ静かに御休みください。」  
 オルロンドは最初、ルコールの言葉の意味がわからず、それゆえに将軍の抱擁が度
を越して強くなったとき、驚愕の声を上げた。
 「将軍、何を・・・」
 周囲にいた衛兵が異変に気づいた時には、オルロンドは吐血したのちであり、狼狽す
る衛兵が呆然と見守る中、たった一人で四魔王の一人を倒した将軍の膂力は伯爵の脊
椎と頚骨に致命的な破損を与えた。
 動かなくなったオルロンドの体を静かに甲板に横たえると、ふう、と静かに息を吐いた。
何もかもが終わった、と思った刹那、脇腹に鋭い痛みを感じてルコールは振り返った。
 背後から将軍の腹部を貫通した槍の穂先は、見る見るうちに鮮血に染まり、その柄を
震える手で握り締めている若い衛兵の肘の辺りまで生暖かい液体で濡らした。
 アヴァロン随一の勇者の一人でもあるルコール将軍の反撃に恐怖したその若い衛兵
は、しかしすくんでしまって一歩も動けなくなっていた。だが、周囲の予想に反して、将軍
は少し微笑んで、静かに2度うなずいた後、先に絶命しているオルロンドの傍らにひざを
ついた。
 かなりの時間が経過した後、衛兵たちはルコール将軍がすでに死亡していることに気
がついた。また、将軍は丸腰で、彼の代名詞とも言うべき『真剣ミドゥリヴォン』すら帯剣
していなかった事実を知って、この事態を如何に報告すべきか当惑していた。
 ルコール将軍が最後に2度、頷いた理由はわからない。彼を知る人は様々な推察を交
わし、一つの結論を得た。最初に頷いたのは、彼を貫いた若き衛兵の判断が間違って
いなかったことを伝えたかったのだろう。2度目に頷いたのは、彼が『真剣ミドゥリヴォン』
を持っていなかったことに関連するのではないか、と。 





第2章 「ある愛の、詩」   語り部:青木のだんな



 冬の夜の雨は、静寂を唯一の友とした。それだけが救いだった。  
 撤退から9ヶ月。エルンの港町は、以前の輝きを失った。少なくともこの店にはない。
 この酒場のただ一人の客、傭兵くずれのミサトは自分がこの店の最後の客であること
に、一人ささやかな乾杯を送った。
 思えば半年前、この店に転がり込むようにして住み着いたときには、日々喧騒の絶え
る事のない有様だった。それゆえ用心棒の口にもありついたのだが・・・。この辺が潮時
というやつなのだろうか。  
 空になったグラスをカウンターに置くと、この店のもう一人の住人、酒場の主人ミレイユ
に語りかけた。  
 「・・・いつまでやるつもりなの、この店。」  
 率直だが切実さの伴わないため息のような問いかけに、ミレイユはふふ、と小さく微笑
んだ。  
 「いつまでかしらねえ・・・そう長くはないと思いたいんだけど。」  
 ミレイユはそういってカウンターの上のボトルたちを棚に並べ始めた。彼女が店を閉め
る際の、合図というよりも儀式に近いものがあった。  
 ふと、1杯のグラスが視線に止まり、ミサトは小さな疑問を感じた。いつもカウンターの
一番奥を占拠している古い陶器のグラスと、その傍らに置かれた1本の酒は、ミサトがこ
の店いついたときから、ずっと同じ場所にある。 
 「『熱砂の薔薇』・・・クロンの銘酒か。」  
 見慣れぬラベルにはそう記してあった。グラスは、おそらく毎日磨かれているのであろ
う、埃一つなかった。  
 「・・・あのお酒、誰かの?。」  
 「さあ、ね」  
 ミレイユは一瞬だけ遠くを見るような目で空のグラスを見て、そしてもう一度ミサトに微
笑んで見せた。寂寥とも取れるはかなげな微笑は、半年間見慣れていたはずのミサトを
思わずドキリとさせるほど美しかった。  
 沈み行くエルンに送られる、せめてもの献花だと思えた。 





 ヴォルドロスの港を見下ろす、白い南方レンガ作りの、しかし陰惨な気配を消せない商
館を訪れたとき、シマヅ・ヨシノは思わず身震いしていた。
 それはこの陰気な建物がヴォルドロスの運命を決定する場所に、過去何度として選ば
れてきたからだろう。商業組合の迎賓宿泊施設と言う通り名をこの島のものは誰一人と
して信じていない。酒場の主人に言わせれば、あれは前組合長ドレイクの陰謀の胎盤
だ、と。
 この館を訪れるのは2度目だ。前回ここを訪れたのはシマヅがヴォルドロス自治警備
隊指揮官兼海洋派遣軍総督、事実上のヴォルドロス軍最高司令官に任命される前日だ
った。現在の商業組合長ミヤザーに案内されてこの館にドレイクを訪ねたが、彼は終始
平伏したまま、黙って二人の権力者の陰気な相談を伺っていただけだった。
 すでに自分はヴォルドロス軍人としての最高地位にある。今日は部下を数名、そう信
頼できるわずかなものだけを伴って、この館の主人の招聘に応じたのだった。  館の使
用人は最高位の軍人に表面上の敬意を表すと、応接室の扉を開いた。
 「失礼いたします。閣下の忠実なる番犬が参上いたしました。」
 何の恥ずかしげもなく卑下してみせながら、豪勢な樫の扉を潜ると、そこには前組合長
ドレイクのほかにもう一人の先客、ミヤザーがいた。
 「シマヅ、ユーは確かミーにも同じこと、言ってたネ。いったいどっちのドッグなのかナ」
 恰幅のいい、人のよさそうな中年の組合長は、しかしひょうきんな口調とは裏腹に、そ
の眼は決して笑顔とは程遠い距離にあった。
 あわててシマヅは弁解する。
 「いえいえ、私は両閣下の飼い犬。2本の尻尾があるならば、器用にふってごらんに入
れましたのに。まことに人の身に生まれたこの体が口惜しゅうございます。」
 取り繕いながら、さりげなく手土産のエルン産ワイン名品を差し出す。この男は手ぶら
で上位者を訪れたことは一度もない。今までも必要とあれば現金だろうとも恥ずかしげも
なく差し出した。その甲斐もあって、一度も戦場に立つことなく最高地位を手中に収めた
のだ。
 「戯言はもうよい」
 ドレイクは作り笑顔さえ見せずに、その暗い眼光でシマヅを射すくめた。
 「お前を呼んだのは他でもない。次期組合長の件だ。アオヤマとかいう若僧はしってお
るな。」
 はい、とシマヅは短く答えた。エルン出身の若い商人で、戦争を利用して小麦で莫大な
財産を作り上げた男だ。シマヅも当然のようにこの男の身辺を独自に調べさせていた。
 「若く、才覚もある。次期組合長には最適だと思うが・・・」
 ドレイクの言葉に、ミヤザーは小さくかぶりを振った。
 「No!でもカレはエルンの出身ネ。シンヨウできないヨ。」
 シンヨウできないのはお前たちだろ。シマヅは心で毒づいた。しかし、この二人の意見
が食い違うとは・・・少なくとも今までミヤザーが前任者の意向に逆らうのを見たことはな
い。
 自分がここに呼ばれたのは、決して意見を求めてられているわけではないことをシマヅ
は知っていた。つまり、すでに一人は必要なくなったということか。ドレイクの視線がわず
かに肯定の意思を彼に届ける。半ば戦慄にも似たものを感じながら、シマヅは笑顔をひ
とかけらも崩さなかった。
 「まあ、性急にお決めになられずとも・・・この酒でも飲んで、じっくり我々の幸福な未来
でも。」
 そういって持参したワインの封を切る。ごく自然に、決してボトルに細工してあることが
気づかれることがないように・・・。
 差し出されたグラスをおずおずと受け取るミヤザーに、嘲る様なドレイクの言葉が響い
てきた。
 「どうした、毒なぞ入っておらんぞ」
 そういって自分のグラスをぐっと飲み干し、意味ありげにシマヅを見る。ボトルには細工
がしてあって、一方にだけ毒が盛られる仕組みになっているのだ。古典的だが、効果的
な手段だ。
 「ジャア、ヴォルドロスの未来に、ネ」
 そういってミヤザーもぐっとグラスを干した。シマヅが初めて笑顔を崩し、少し疲れたよ
うな表情になる。やっといやな仕事が片付いた、と言わんばかりに。
 ミヤザー、貴様は用済みだ。そう宣告しようとしたドレイクの口からは、言葉は出ず、代
わりにワインよりも真っ赤な液体がこぼれ出た。
 「ば・・・ばか、な」
 驚愕の表情のまま床に倒れこんだドレイクを冷静に見下ろすミヤザーは、いつもどおり
の笑顔で、
 「ユー、もうシオドキ、だったのネ。いつまでも権力が手元に有り続けるなんて、イリュー
ジョンよ。」
 その言葉はしかし、もうドレイクの耳には届かなかった。
 シマヅは僅かな時間で手際よく部下たちに後始末を命じると、最初の犬の表情に戻っ
て、ミヤザーにひざまずいた。
 「閣下、次の御命は・・・」
 名実ともにヴォルドロスの最高権力者となったミヤザーは、あらかじめ準備していた書
類をシマヅに手渡し、アオヤマという商人を連れて来い、と命じた。彼を次期商業ギルド
の組合長に任命すると。
 陰謀の館を立ち去るシマヅは、彼の将来についての様々な要因を検討し始めていた。
 ミヤザーは自分の架空の忠誠心など1グラムも評価していない。彼に全てを委ねる気
には到底なれなかった。ではアオヤマという男はどうだろう。誰よりも先んじて彼に会うこ
とは、自分を有利に売り込む好機かも知れない。他にもまだ大勢の、現在のところ自分
よりも権力を持つ人物がいる。この汚れた海を泳ぎきる能力が、自分にはあると信じて
いた。 
 シマヅは誰に言うでもなく、彼の信条を呟いていた。 
 「人間は二種類に分類できる。金で動く者と、より多くの金で動くものと。」





ペルトカで一番遅くまで開いている酒場はどこか?という問いに、ペルトカの住人は一様
にこう応える。
 「コリーナがいる店さ」
 かつて『魔王戦争随一の英雄』とその名を知らしめたコリーナは、この2年間、酒場の
テーブルと、酒場の床とを往復して過ごしていると形容される生活を送っていた。
 戦うことに疲れたんだよ、と多くの人々は語る。だが、それが真実でないことを知るもの
は少なかった。
 「・・・コリーナ。もう飲みすぎだべ。」
 牧童頭のジャックは、年齢も近いこともあり、コリーナに付き合わされて酒場に居座る
ことが多かった。無論、いまだ新婚気分の抜けないジャックは早く切り上げて帰りたいの
だが、面倒見のいい彼には、泥酔した友人を放って置いて帰るなどということは出来る
はずもなかった。 
 「このままじゃ、おめえ、酒で溺れ死んじまうぞ。」
 コリーナは1歳年長の既婚者を焦点の定まらない瞳で見つめ返すと、
 「『アヴァロンの英雄』を倒すのは魔王でもドラゴンでもない、この1杯の酒さ。酒は人類
の友人だ。友人に裏切られて死ぬのなら俺は本望さ。」
 そういうや否や、制止を振り切って杯を一気に干した。ジャックは、どうしようもない、と
頭を振ってコリーナを引き止めるのをあきらめた。
 ・・・ライラはまだ起きているだろうか。彼は美しい妻のことを思い、心が重くなる。アヴァ
ロン一の美女(とジャックは信じているが、これはあながち間違いではない)と結婚したま
ではよかったが、コリーナと知り合って以来、2日に1日は深夜までつき合わされている。
生来小心者の彼でなくとも、不安になることもあるのだ・・・。
 「あなた」
 背後から、まさにライラから声をかけられ、ジャックは驚きのあまり椅子から転げ落ち
てしまった。ごめんなさい、近くまで届け物があったから寄ってみたのだけれど・・・。そう
告げる愛妻に、驚きを隠せないジャックは、いやもう帰るところだったから、と慌てて言い
訳をし始めた。
 「これはこれは、アヴァロン随一の美女にしてペルトカの誇る織姫、ライラさまではあり
ませんか。かような辺地へお運びいただき、不肖コリーナも恐縮の極みにございます、て
ね。」
 コリーナはわざとらしく大仰に頭を下げた。ただでさえ騒がしい酒場が、どっと沸いた。
嬌声の半分はコリーナの道化に、もう半分は美しき人妻にであった。
 突然の妻の来訪に、思わず醜態をさらしてしまったジャックであったが、周囲の愉快そ
うな視線に気が付くと、ふん、と少しだけ強がってみせた。そんなジャックにコリーナは強
引に酒を注ぎ、からむ。
 「なあジャック。このアヴァロンできみほど幸福なやつは他にいないぜ。仕事をさせれば
人も羊もきみの言いなりだし、何より奥さんが美人だ。人生の幸せはこれに尽きる。」
 ジャックは酔っ払った英雄を振りほどきながら、
 「そんなことはねえぞ。おめえさんだって、剣はアヴァロン一で王様だって一目置いてる
し、それに嫁さんだってその気になりゃ、好きなだけ選り取り、だべ。」
 他愛もないつもりで言ったのだが、思いのほかコリーナには堪えたのだろう、椅子に深
く座りなおすと、ふっと自嘲気味に笑った。
 「・・・そう、思い通りにもいかんさ。世の中には、因習だの風評だの、剣では勝てない相
手が多すぎる。」
 コリーナの眼は酒場の喧騒を離れ、数瞬だけ記憶の中の女性の、その悲しい横顔を
見ていた。いくら剣で身を立てても限界がある。想いだけではどうにもならないことがある
と、思い知らされた日のことが今でもはっきりとよみがえっていた。
 「まあ、今は酒も飲めるし、いい飲み友達もいる。アヴァロンで2番目ぐらいには幸せな
んじゃないかな。」
 おどける英雄の勢いに、きょとんとした牧童頭は率直な質問をぶつけた。
 「なあ、コリーナ。おめえさんは魔王も倒した男なんだろ。そのインシュウだかフウヒョウ
だかは、あの恐ろしい魔王よりも、強いもんなんかね。」
 深い考えのあったわけでもないジャックの言葉に、しかしコリーナは、始めきょとんと彼
を見つめ返した。
 不意に、ふっと口の端を緩めると、少し送れて、意外な反応を示した。
 「魔王よりも、か。・・・・そんなはずは無いな」
 そう呟くと、近くを通りかかった酒場の女中に抱えていたジョッキを手渡し、代わりに女
中の手から大きめの水差しを優雅に奪うと、ゴクリと一口飲み、残りは頭からザバアと水
をかぶった。
 酒場の住人は突然の出来事に驚いて、誰もが一言も発せずにコリーナを注目してい
た。誰よりも驚いているジャックに一言、
 「急用を思い出した。今日はこれで失礼する。」
 とだけ告げると、コリーナは確かな足取りで、まっすぐ酒場の戸口から足早に遠ざかっ
ていった。数秒後に小さなざわめきが酒場に戻ってきたが、ジャックには未だに何が起
こったのかわからなかった。
 不意に、ジャックの腕にライラが抱きついて、ふふっと幸せそうに笑った。いったい急に
どうしたんだ、と間抜けな質問をする夫に、ライラは嬉しそうに告げた。
 「いえね、私、本当にあなたの妻でよかったと、ただそれだけのことなんですよ」

 それから1月ほどたって、ダレインのエウレリア女王が突然の退位を宣言した。後継者
には8歳になる彼女の親類が指名されたが、後見人としてペルトカのローガン王がその
名を連ねたことから、ペルトカによる実質的な併合政策だと周囲は判断した。
 王冠をはずすエウレリアは、しかし幸福な女性にしか見えなかったという。





 弱冠19歳で「エルンの賢者」の称号をえた少女テーシャは、エルンの前大司教にして
戦前はプレスピアで大神官代理まで勤め上げたアウグスティムを訪問した。別に旧来の
親友と言うわけではない。数年前、王立学院を視察に来たアウグスティムと当時最年少
で主席に選ばれたテーシャは僅かに儀礼的な言葉を交わした程度だった。
 だが、予想に反してアウグスティムは彼女のことをよく覚えていた。
 ようこそ、と自室に招き入れると、
 「ちらかっていてね。貴方が来てくれると分かっていたら、もう少し片付けていたのだけ
れど。」
 そういって8歳年下の少女に丁寧に椅子を勧めた。
 「・・・貴方にお詫びを申し上げに来ました。」
 しばしの沈黙を破ってテーシャは言葉を選ぶように紡ぎだした。
 「貴方はご存じないかもしれませんが、私は、いえ私たちは祖国エルンの行動を著しく
制限する活動を行っていました。」
 「『白い手袋』のことですね。」
 アウグスティムは全てを察していたかのように優しげに微笑んだ。
 ご存知だったのですね、と驚愕するテーシャにアウグスティムは黙って頷いた。
 「ええ。良く頑張りましたね。無事に戦争が回避できたのは、あなた方の活躍があった
からだと、神もご存知のはずです。」
 「しかし、」
 テーシャは潤んだ目で柔和な司祭を見つめ返した。
 「貴方は全てを失ってしまったじゃないですか。エルンは事実上消滅し、近日中にはペ
ルトカに併合されます。戦争の熱に浮かされていた愚か者たちが表舞台から転げ落ちる
のに、貴方まで巻き添えにしてしまった。その責任がこの私に無関係とは、いえませ
ん。」
 事実、一時は宗教者としての最高地位を手にしたアウグスティムも、エルンの国家とオ
ルロンド伯の支援を失い、現在は軟禁同然の有様だった。テーシャを含めて、彼を知る
ものは皆、アウグスティムは権力闘争に巻き込まれた、哀れで善良な司祭でしかないこ
とをしっていたのだ。
 「ですから、貴方にだけは、お詫びを申し上げたかったのです。『白い手袋』の創始者と
して、いいえ、貴方を敬愛する一人のエルン人として。」
 テーシャはアウグスティムから罵倒されることを望んでここに来た。彼が発する呪詛の
言葉をその身に受けるために。それが、順当にいけば人々の尊敬を一身に集めたはず
の司祭に対する彼女なりの償いとなるはずだった。
 少しだけ時間が流れた。重い沈黙を破ったのは司祭の柔和な声だった。
 「次の赴任地が決まりました。ダレイン極北教会、特別顧問司教です。まあ、顧問とい
っても私以外には司祭もいないし、彼の地はまだまだ信者も少なく、教会も前任者がい
なくなってだいぶ立っていますからね。」
 そんな、とテーシャは息を呑んだ。これでは赴任ではなく、体裁のいい流刑ではない
か。
 「仮にも宗門の最高位を極めたこともあるお方に、あまりの仕打ちではありませんか!
私がどうにか、せめてエルン国内に出来ないか交渉してきます」
 そういって部屋を飛び出そうとした少女を、司祭は優しく制した。
 「私はね、テーシャさん。こんなにうれしいことはないのですよ。未だ神の恩寵行き届か
ぬ地で、神と救いを求める人々のためにこの身を捧げて生きるのです。素晴らしい未来
でしょう。」
 そういってテーシャの手を取ったアウグスティムの瞳には、一点の曇りもありはしなかっ
た。
 ああ、この人は本来の生き方に戻るのだな、とテーシャは悟った。そして自分の申し出
が浅ましい物に思えて急に恥ずかしくなった。
 「・・・私は、どうすればいいのでしょうか」
 思わず口から出た言葉は、テーシャがエルン敗戦後ずっと思い悩んできたことだった。
自分が『白い手袋』でやってきたことは間違いではなかったが、しかし誰もが幸せという
わけでもなかった。
 若き司祭は19歳の少女をそっと抱きしめた。静かに、優しく語りかける。
 「自分の出来ることを、自分のいるべき場所でおやりなさい。貴方はエルン王立学院の
賢者なのでしょう。こんな時代だからこそ、貴方が知識を伝えるべき相手は、まだ大勢い
るはずです。そう、アヴァロン中にね。」
 「教育者に・・・なれと」
 二人は熱い眼差しを交わした。方法は違えど、平和な世の中を造り行くために必要な
ものを、私たちは持っているじゃあありませんか、とアウグスティムはテーシャを励ます言
葉を選んだ。
 「では残念ですがこれで失礼します。出発まで間がないもので、荷物が片付かないんで
すよ」
 そう告げた若き司祭の柔和な笑顔を、テーシャは生涯忘れなかった。そしてそれが彼
を見た、最後でもあった。
 レスタークW世が正式に退位の宣誓書にサインし、遠縁に当たるペルトカのイレーヌ王
女がエルンの統治者になったのは、エルンの撤退表明から1年4ヶ月後であった。
 ちょうどその日にアウグスティムを乗せた船はエルンの港を出港した。
 北のダレインでの彼の献身的な功績が認められ、極北教会が聖地巡礼に加えられる
のはそれから22年の月日が経過していた。アヴァロン有数の教会に成長した極北教会
は、後に多くの司祭を輩出し、その名声は後世まで語り継がれた。
 もっとも、アウグスティム自身はこの栄光を知らない。彼は赴任4年目に高熱を発する
病に倒れ、翌年には帰らぬ人となった。短い間だったが、しかしダレインの住民の多く
は、彼の献身的な信仰と布教活動に深い感銘を受け、早世した司祭を聖者の列に並べ
た。
 彼の業績を称える碑文が2箇所に建てられている。ダレインの港と、エルンのアヴァロ
ン中央学術院、通称『アヴァロン学園』の正門横に、である。





 港町の雨は冷たく、静寂は善良な神の控えめな配慮に思えた。
 カウンターの燭台の、ほんの1インチほどの蝋燭を最後の友として、ミサトは、この酒を
飲み終えたらこの店を出て行こうと決めた。物事には、終わりがあって、全てが劇的とは
限らないのだから。
 ミレイユが静かにボトルを棚に戻し始めた。彼女もまた、静かな別れを感じ始めている
のだろう。
 不意に、酒場の戸口に人影が現れた。濡れたサーコートを脱ぎもせず、まっすぐにカウ
ンターの一番奥の席に座ると、『熱砂の薔薇』をグラスに注ぎ、黙ったまま飲み干した。
 ミサトはすばやく視線をカウンターの奥のミレイユに移した。だが彼女は背中を見せた
ままボトルを片付け続け、その表情は読み取れなかった。
 「・・・ペルトカに行く。今度の肩書きは代表武官だ。テーブルの上の戦場では、あの老
獪なローガン王相手さ、他のやつではすこし役不足だろう。」
 サーコートの男はミレイユを見ようともせず、静かにそう告げた。
 「・・・あら、神聖騎士団長はもう辞めたの。」
 ミレイユもまた、背中を向けたまま応えた。
 「いい後任がいる。アズエルは若年だが、不退転の気概がある。騎士団ぐらいどうにで
もできよう。それに副官は『狂犬』ラルヴァ・スティードだ。二人がかりでどうにもならんよう
なやつは、もうアヴァロンにはない。少なくともそう訓練してきたつもりだ。」
 男はそう告げると、静かに立ち上がった。そのときミサトには、ミレイユの背中が少しだ
け硬さを増したように見えた。
 「・・・ペルトカの重臣たちは、エルン完全併合後はアヴァロン全土に手を伸ばすつもり
みたいね。またペルトカからやってくるお役人が増えそうよ・・・。」
 ミレイユの声は、少し震えていた。彼女がこの港で酒場を開いてきたのは、愛する男の
ために情報を集めるためだ、と誰かが噂していた。 
 「それ故に、ここに寄った。」
 濡れたサーコートよりも冷たく男は言い放った。ミサトは思わず席を蹴って立ちあがっ
た。この冷血漢をぶん殴らなければならない衝動が思わずそうさせたのだ。
 だが、男はミサトの不意をついて、小さく呟いた。
 「・・・次にくるときは、代金を持ってくる。」
 一瞬意味がわからず、振り上げたこぶしに戸惑うミサトは、しかしミレイユの返事で全
てを悟った。
 「待ってるわ、期待せずにね。」
 裏腹に、ミレイユの声は先ほどまでとは違う旋律を奏でていた。男はその言葉を聴く
と、振り返りもせずに店を出て行った。
 「わかんないね・・・一緒に行けばいいのに。」
 拍子抜けしたように椅子に腰を落とし、ミサトは自分のグラスを空ける。
 「あら、いいの。私の監視があなたの仕事なんでしょ、エルンの中尉さん」
 ミレイユは蜀台に新しい蝋燭を継ぎ足すと、こともなげに半年間ミサトが隠匿していた
事実を告げた。あわててグラスを落としそうになるミサトは何とか取り繕って、
 「あ、ああ、知ってたんだ。人が悪いな。・・・まあ、それも今となっては昔の話さ。命令を
出した本人が、先に死んじゃったからね。あらためて、用心棒にでも雇う気ないかな。」
 そう、ミサトはすでにエルン軍への復帰は念頭にない。オルロンド卿の生命とともに、そ
の可能性は消えていたのだ。
 「何なら、一生ずっとこの店の用心棒でもいいんだけど・・・」
 ミサトが懇願するように見上げたとき、ミレイユは初めて男の出て行った後を見送って
いた。
 「・・・そうね、一生ずっとは、だぶんムリね。」
 ミレイユはそう呟いた。それは素敵なことだとミサトは思った。
 冷えると思ったら、外は雪に変っていた。





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